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APIテスト2 |
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API |
http://exist.client.jp/top/sayonala.html
そういえばformでデータを送信する時、画面遷移を新しいページにするにはどうしたらいいんだろう。
追記
formタグ内のtarget属性を_brankにすれば良いだけだった。
APIのテスト |
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API |
APIのテストをやってみた。
http://exist.client.jp/top/sayonala.html
ちなみにAPI初体験。
getとpostの差がかろうじて分かるくらいの人間としては、はてブとかに比べて簡単なのが良い所。
でもsa.yona.laのAPIって記事の投稿だけで取得が出来ないんじゃあ、あまりAPIの意味が無い気もするんだけどなあ…
ちなみに一番頭を捻ったのは文字コードをUTF-8に設定する部分。
要はmetaタグのcharsetをutf-8にすればいいのね。
Re: 蚊のようなもの
役に立ちたい |
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そもそも
「自殺できてしまう」ような人間が、
「他人の迷惑」を考えられるわけがない。
にもかかわらず迷惑だの何だのと言って死人を批判するのは、
ただ他人を批判して良い気になりたいだけなんだろう。
まあ、そう言う人達も現実社会では虐げられているから、
そうなってしまっても仕方ないのかもしれないけれど。
でも、やはり、人として正しいのはそうやって非難することじゃない。
それでは、これからも自殺者は減らない。
正しいのは、自殺という選択肢を選んでしまえる程に
「追いつめられてしまった人」を、寸前の所で救う事。その筈。
自分達が社会に活かされているからには、せめてそう言う形で役に立ちたいと思う。
書きたいものと書けるもの |
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小説 novel |
趣味で、いや趣味というより「個人的主張」も入り交じっているけれど、とにかくそれで小説を書いていたりすると、常々ため息を吐きたくなることがある。
それは簡単に言えば書きたいモノと書けるモノの差だ。
こんなのが書きたい、あるいはこんなのが理想だ
そう思っている話が自分の中にはある。
だが実際自分で書いていくと、どうしても決まった方向性になってしまう。
それが自分に書けるモノということになる。
前者は、理想をコピーすれば安易に同様なものは書けるかもしれないが、
自分でオリジナルを書いていると、どうしても限界というか法則性が発生してしまう。
そして自分の書けるモノを受け入れられないと、どこまでも悩む事になる。
いつしか書きたいものと書けるもののギャップを埋める事は出来るのだろうか。
あるいは自分の書けるものを、素直に受け入れられる日がくるのだろうか。
理想の自分と現在の自分という悩みは誰もが一度は考える事だろう。
理想に近づこうとするのも正しいし、
今の自分を肯定して自分の道を進もうとするのも正しい。
ちなみに、個人的嫉妬と偏見に基づく区別だと、
華々しく誰にでも認められる天才は後者で、鬱屈した天才は前者である。
だからなのだろう。華々しく活躍している人を見ると、素直に笑えないのは。
Re: http://xmny3v.sa.yona.la/70
ニュアンス伝達力 |
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仮に実現したとして、邦題と英語タイトルの併記の良い所は、
タイトルの場合直訳では上手くいかないので(あるいは直訳不可能なので)、意訳がされると思いますが、
それを見て、
「ああ、日本語でこう言いたい時は、こんな感じのニュアンスとして意訳するんだ」
という、ニュアンス伝達力が身に付くのではないか、という点だと思いました。
自分が英語習得を迫られた時は、とにかく日常生活のふとした瞬間に「ああ、これを英語で言うにはどうしたらいいんだろう」と考える事でなんとか切り抜けましたが、そう言う時に感じたのは、
まず伝えたい事を日本語で考える
↓
それを英語にできそうな文章に変換する
↓
英語に変換する
というプロセスの重要性でしたね。
ちなみに最近知ったんですが、機械翻訳サイトでは主に中間言語方式というのを採用しているらしいですが、これはまさに上記のプロセスそのままなんですよね。
英語、というより他国語教育 |
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教育 |
なぜ日本人は外国語に弱い(と言われている)のか。
むしろなぜヨーロッパの人達はあんなに自分の周辺の国々の言葉を理解し、喋れるのか。
なんとなくそれが分かった気がしたので書いてみる。
先日某輸入雑貨店でお菓子を買ったんだけれども、
パッケージの裏にカロリーとかの成分表示が書いてあった。
それでよく見てみたら英語、ドイツ語、あともう一カ国語(イタリアなのかスペインなのか分からんけどそんなの)で書いてあった。
それで調べてみたら、この表示は別に輸出用だからこうなってる訳じゃないらしく、
国内向けでもそういう風になっているらしい。
もしかしたら日本では日常生活において他国語と自国語の並列表記のされた製品が少ないのが(あるいは「少ないのも」)、他国語下手な原因じゃないのか。
少なくとも生活必需品を外国語で何と言うか、それを理解しているか居ないかだけでも、大分苦手意識みたいなのは変わってくるんじゃないだろうか。
もし文科省が外国語教育に熱を入れるなら、まずはお菓子の裏面を2カ国語表記にしてみるのがいいかもしれない。
「死ねば良いのに」考 |
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死ねばいいのに |
「死ねば良いのに」
自分はその言葉を昔から使っていた。ダウンタウンの某番組が始まるより、遥かに前の話だ。
とりあえず結論だけ言えば、「死ねば良いのに」という言葉の存在ーそれを公共の場で使ったり、人に向けたりーに拒絶反応をする人は、「自分には生きる価値が有る」と思っていたり、あるいは自分の人生を他人の不条理によって歪められる事の無い幸せな人なんだろう。
■
自分はある時から、自分に生きる価値がある思えなくなってしまった。
生を望めなくなってしまった。生きなければいけない理由がなくなってしまった。
それは自分のどうしようもなさに気づいた時からかもしれないし、
他人から評価をされない自分に気がついたときからかもしれない。
いずれにしても、自分という存在が、どうにも無価値にしか感じられなくなってしまった。
だから「死」に対して特別、拒否感嫌悪感は抱いていない。
■
「人間が生きることは何ものにも代えられない」
拒絶派が「死ねば良いのに」を否定する理屈は主にそこだったりする。
だが、例えば2000万人を粛正したスターリンを、「死ねば良いのに」と考え、その死を公然と願うことは、間違っているのか。
ある人間によって、自分が受容できない程の被害を被るような場合、その人間の考えを変えられないとしたら、あるいはその人間の行動をどうやっても自分では止められないとしたら、もはやその人間の死を願うことしか被害者には出来ない筈だ。それは間違っているのか。
死は時としてその他の選択肢と天秤にかけられる。
それゆえ、死は相対的なものであって、絶対的ではない。
■
「死」をあまりに敬い、忌避しつづける連中というのは、「死」を絶対的な終焉と見なすが、それはそいつらが主観的にしか物を見れないからだろう。だから主観的な絶対的終焉に対して異常なまでの恐怖と忌避感を抱く。
だがそういう奴は総じて、他人の考えを理解できないし、また自分が他人に迷惑をかけても自覚していない。
そして自分のネガティブな側面に気づかないまま生を謳歌している。
別にKYな連中に対して俺は拒絶したりしない。多数から一方的に自分の行動を否定される事の不条理さを知っているから、たとえKYでも優しく見守ることにしている。
だが、それが自分に対して言論弾圧を行うなら話は別だ。
しかも彼らの行動の論拠は忌避感という一方的な感情論ときている。
■
「死ねば良いのに」
俺がその言葉を最初に使ったのは他人に対してではない。自分に対してだ。そこから始まっている。
だから拒絶派に対して言いたい。
もし「死ねば良いのに」という言葉を否定したければ、俺に、生きる価値を与えてくれ。生きたくなるような世の中にしてくれ。明日を絶望させるような政策を実行しようとしている連中の考えを合法的に変えてくれ。
http://g9e8mk.sa.yona.la/49 |
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別に現実逃避じゃないと思うよ。
明日や将来に何かを欲しいと思うから、それを手に入れるために今頑張れるのであって、
そういうのは全然普通の事だと思う。
ちなみに、自分が数年前通ってた予備校の講師の名言にこんなのがあります。
「先生ってのは、ただ『先』に『生』まれただけで、偉くもなんともないんですよね。
私が学校の先生になれなかったのは、教員試験の面接で面接官の校長があまりにふんぞり返って偉そうな口ぶりなもので、もう教師になんてなりたくなくなって頭に来て言っちゃったんですよ。
『私も貴方もお互いただの人なのに、なんでそこまで言われて黙ってなくちゃならないんだ』って」
嫌な気分になるっていうのは、まだ貴方がまっすぐに生きているからそう思うのであって、
そして自分はもうそれほどまっすぐではないから、貴方のまっすぐさが羨ましい。
なのでそのままでいいと思うよ。
ノイズキャンセリング |
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本来、平等で無淘汰な言説というのは、人類史には存在してこなかった訳で、
そう言う意味ではスラッシュドットのようなしきい値の存在する、正当な淘汰と不平等の存在するコミュニティのほうが、自然である、というのは確かなんですよね。
とはいえ、誰もが嘗てはガキであり厨房でありクレクレでありググレカスであったように、
プライマリーな人達を排除するのも、それはまたコミュニティの新陳代謝の阻害と文化の過疎化を招くのでよろしくない。
そこで理想的なのはグループ内に相互承認による位階制を作り、「この人は自分と同じレベルである」と思った人を承認していくことで、内部に階層構造を作り、下は下、上は上で緩やかな「連続」と「断絶」を持つコミュニティにすることなのかなあ、と思っている次第。
例えば同じ位階のユーザー同士のコメントは普通に表示されても、下層ユーザーのコメントが上層ユーザーには表示されなかったり、あるいは上層ユーザーしかコメントできないトピックがあったり、またある位階のユーザー間で好評価なコメントは上層ユーザーにも表示するみたいな。
まあ上手い事相互承認のアルゴリズムをポイント制にするなどしてバランスを取らないと、ただの派閥争いになったり下らない自尊心を満たすためだけの場になってしまうのが欠点だろうと思いますが。
Re: http://vfb4ac.sa.yona.la/34
http://g9e8mk.sa.yona.la/45 |
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> 他人との比較の中で生きていない人も世の中にはたくさんいる
けれどそういう生き方を目指そうとすると、その動機の時点で
「他人と比較せずに生きてる人への劣等感」
になっていて、既に他人との比較なので、
ああもうどうしようもない、と思ってるんですよね。
ちなみに「無限循環性ナルシズム」と命名しました。
ああ、でも。
「今日が駄目でも明日は良くなる可能性がある」
というのも同じく座右の銘なので、なんとか生きてます。
絶望という言葉の、美化された感じが嫌い |
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どうしようもない |
まあ、そういうこと。
たとえば、他人が頑張っていて、自分は自堕落な生活を送っていて、
そんな自分の自堕落な生活が嫌になったその理由というか感情が、その他人への劣等感だったりした時の事。
結局そんな時ですら他人と自分を比べたいのか、と思うと、死にたいという感情すら湧いてこない。
何故ならその「死にたい」って感情も、劣等感によるものだから。
つまり、
それ以上自分を嘆くのも、
自分を否定するのも、
あるいはそこから一念発起して立ち直るのも、
全て「劣等感」がその動機であり、
どの選択肢もあまりに下衆すぎて、
じゃあそんな下衆な自分をどうにかしようと思うのも、結局は劣等感。
血管に流れてんのは劣等感なんじゃないかって程に、どこまでも劣等感。
そのあまりのどうしようもなさに、
ああこういうのが絶望感なんかな、とか思ったりしたけど、
そんな美化された感じが何か違う気がして、
つまり絶望もできないのかと思い、
それ以来、座右の銘は「どうしようもない」にしている。
嫉妬 | g9e8mk | sa.yona.la |
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絶望 |
自分がどれほど最低なんだろうと思い返してみると、
そういえば昔から、
友人が出来ると、自分のしたい話を一方的にして、
相手の興味には一切関心を持たず、
そうやって相手を食いつぶすような付合い方をした挙げ句、3年ほどで喧嘩別れをしそのまま音信不通
というのを繰り返しているような気がする。
吸血鬼か俺は。
嫉妬 |
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自分にsa.yona.la |
恋人は有意義な人生を送っていて、
自分は無意味な人生を送っているから、
恋人に対して「もっと自分の為に時間を割いてくれ」と我侭を言うのは、
恋人の人生に嫉妬しているからなんだろう。
恋人の人生から時間を奪い、
自分の人生に逢瀬を加えることで、
お互いの人生の価値を少しでもすり寄せようとする、
我ながら反吐の出るような行為だ。
本当に、自分は死ねば良いと思う。
でも多分、今自分が死んでみて、
恋人の人生から自分が居なくなっても、
それでも恋人の人生の価値は、死ぬ直前の自分の人生よりも価値のある人生だろう。
まあ、だから今は死ぬつもりは無いけどね。
本当に、最低を通り越して、死ねば良いと思う。
Re: そんな俺は経済学部
象徴の貧困 |
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どんな人も、他人の言葉で自分の言葉を練り上げる工程があるはず。たとえば「受け売り」もその一つ。 どのような「他人の言葉」を取り入れたか、それが個性であり、「自分の言葉」を作るんじゃないかな。
それは確かに同意です。
個性があっても、それを語る言葉は外から取り入れなきゃならないですしね。
ただ、今のウェブを見ていると、他人の言葉を取り入れる「個性」そのものが危うくなっているような気もします。
「物があふれているのに心が満たされない」と誰もが口にしながら、そこから一歩も進めないのはなぜなのか。それは現在の資本主義がまさにその不満を搾取するからである。「本当の自分」「私らしさ」を求めようとすれば、市場はすかさず「あなただけの」「特別な」商品を提示してくる。このような消費、欲望の規格化を繰り返すうちに、その人の市場での位置も価値も定まり、やがて同じような嗜好を持つ者同士の自閉的な、自己批判能力に欠けたグループがあちこちにできあがる。それはもはや「われわれ」と呼べるような共同体——特異な「私」たちの拮抗によってダイナミックに姿を変えていけるような集団ではない。
格差社会や成果主義の結果、朝の電車内では日経新聞と「出来る人間の仕事術」のような本を読んでいるサラリーマンが増えている。
個人の多様性が尊重されながら、その背後では社会的淘汰圧の中で個人を容赦なく比較する。
特にウェブ。
今、先進国では物余りの時代だという。多様化の時代ともいわれる。基本的な物質的欲求が満たされ始めたため、人々のニーズは多様化し、マスプロダクションで生産されたものは売れなくなってきているのだ。人々は物を買うという行為の中でも、自分らしさを追求し始めた。自分らしさを表現し始めたということだ。
↑では、Web2.0といわれる昨今においては、全ての人間がその創造性を発展させ、自己表現を行うと言ってますが、それはひっくり返せばそうした「自己表現をしたがる事」自体が、作られた「象徴」としてある種の「流行」になってしまっています。
流行を嫌う人間は、現実社会にもウェブにも矜持を持って存在することが出来なくなりつつあるのではないか、という危惧が自分にはあります。
論文 |
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学問 |
自分は学者ではない。あくまで素人の学徒でしかない。
だが学術論文を目にする事の多いせいか、そこら辺に対して思う事がある。
言葉とは相互理解と物事の定義の為に用いられる。
だからある言葉はお互いがその意味を共有している必要がある。
特に学術論文となるとそこには正確性が求められるので、ある「言葉」の意味は極めて厳密なものになる。
そして学者は皆、そうした厳密な言葉で、自分の考える世の真理を説明している。
だが本当にそんな「他人の言葉」でその人の考えを正確に伝えられるのだろうか。
もちろんそれを正確に伝えるのが学者の力量であると言われればそうかもしれないが、
そもそも言葉が完全に事物を表象しきれるかというとそれは不可能だ。
そんな厳密だけれど不完全な言葉で自分の思考を表象できるのかといえば、それはまず無理と言って良い。
言葉というのはニュアンスの問題がある。
例え口語的でいい加減な表現でも人と人の間では理解が出来る。
むしろ自分の考えは自分の言葉で伝える方が、相手に正確に伝わると感じる事が多い。
相互理解を完璧にしようとして、厳密な言葉で自分の考えを語ろうとすると、かえって取りこぼしが生じてしまうというのは、ある種の皮肉なのかもしれない。
そしてウェブもまた、他人の言葉で他人に受け入れられる事を言う人間だけが、「価値のある人間」だとされる。
もちろんその事を完全に否定するつもりはない。
けれど、自分の言葉で自分の考えを純粋に伝える人間を「価値がない」と言われれば、それはおかしいと思う。
「他人の言葉で自分を語るな」
とあるアニメからの受け売りだが、Web2.0と言われるウェブの中で、自分の言葉で自分を語っている人間は、それほど注目を浴びていない。
それでも自分は、自分がここにいるから、自分の言葉で自分の存在を示す。